近況

耳掃除をしたらどす黒い垢かそうでないものが出てきた。


暗黒法、という言葉をじすさんは使った。
暗黒法の条件として扱われる自傷は一見したよりもずっと大きい。
絶望に追いやることも、怒りに任せることも、希望を待ち望むことも、
全部、痛みはそこ止まりではない。
僕はどうかはわからないが、それが正しく伝わってしまったときを
考えると、「創作そのものが自分に向けられていて他の何でもない」
人以外には、フィードバックにあてられて暗黒法を使わざるを得ない
状況に自らを放り込む連鎖が始まる。人工的な芸術家の出来上がりだ。
(ここでの悪意あるフィードバックは実際にある環境からの絶望感、
誰に向けられたものか分からない怒り、ただただ諦めの境地にある人間の
些末な希望。これら全部を、意識して暗黒法を用いた人間は理解できないが
勝手に「癒されました」と言われることが多い。自分の知りえない痛みを
告白されることや、それを解ってくれたのですよね、と言われたときの
あの苦痛からは抜け出す手がないと思う)
実際のところ、この方法を行使するしないに関わらずこの連鎖に
自然とはまり込んでしまう芸術家は多くて、
またそのファンはそれを見せても作り出すことができず、
打ちのめされるだけの羊に過ぎない場合の方がずっと多い。
僕自身はそれは悪いことではなく色々な意味で個性的なので好ましいと
思っている人間だが、自分で選んだリスクを背負わずに回復する手立てが
自分にはないので妬ましい。
勿論あの方法自体が自分を追い込む度合いに比例するために、
僕と彼とではレベルが段違いだ。けれど、これを極めるのは何か、何かが
違う気が僕はしている。
それでいい人もじすさんを含め沢山いるのは確かだが、僕自身はまた別の
何かがちょうどいいと思う。


反射的な叫びばかりが創作の素材じゃない気が、僕はどこかでしている。
たくさんの反響を呼んだ第一作目は、作り終えた時が一番満足できた。
人に向けるべきものではなかったと思う。ただ自分のために使うことで、
あの作品はもっと生かせたと自分で思う。あれは叫んでいるだけだ。
大事なのは誰かの叫びを聴きたい、聴いてあげたいと思うことではなくて、
自分の叫びを誰かに聴いてもらいたいと願うことでもなくて、
誰かに映った効果を眺めるでもなく、自分一人でそれを眺めることだと思う。


誰かのためになれるならいい、と言えるほどに自分のダメージを回復出来てない。
暗黒法ゆえに。だから一度行使してしまった暗黒法のダメージを回復して、
ニュートラルまで戻す必要があると僕は思っている。


ただ僕は自然と叫んでいる場合が多い。そういうときは、チームプレーが出来ない。