ネット

ネットで知った作家の人が作ったものや、彼らの好む第三者の作品は、
あこがれている間、ある程度のプラシーボを伴って「良いもの」と
感じさせることが多い。
実際は作者も自分が胸を張って表出させた作品であったり、
本当にどうしようもなくその第三者の作品が好きだったりするのだが
閲覧者にはまた少しだけ違う捉えられ方をする。
そしてそれが、閲覧者にとって作家を知るための数少ない方法である。


ネットでその作者がページを閉じるなり、息や足音が聞こえなくなると
閲覧者はいわれのない絶望感に見舞われる。
彼らの残したなんでもない直筆の文章が、自分にとってとても尊いものであるような
そういった錯覚を閲覧者に植えつける。結果的に。


この覚えのある作家は多いと思う。
僕らの世代には、比較的ネット作家への憧れから創作へ向かった人間が多いはずだからだ。


なぜ断片しか窺えず、不完全な個人情報にそこまで一喜一憂するのだろうか。
これについて僕は、断片の中に具体性が含まれていることが原因だと考えている。
作家の好きな「実在する」作品、というものは閲覧者からも手が届く。
たとえ手が届いても話を交わすことはできない。が、その具体的な
実在する作品を知り感動することにより、作家の漠然とした人となりを
知る手がかりになるのだ。


想像の中だけで膨れ上がった作家の像としては不完全なものだが、
独占性を伴うためにいっそう彼らのカリスマを高めることになる。
(このどうしようもない僕ですら、戯れにどうしようもなくマイナーな作品を
引き合いに出してはみたが、聞いている人間がいるくらいだから。)
こういった精神的かつ独自の認知が、断片である作家を具体性のあるものに
近づけていく。目的は人それぞれで、自分の目標点であったり
自分になくてはならないけれども失ってしまった感性を持っていたり。
理由は様々であると思う。


忘れてはいけないのは絶望的な距離感だと僕はここで釘を打ち付けておこうと思う。
僕は閲覧者と距離を取ろうと思っているのではない。
そのあらかじめ取られた距離が、精神的かつ独自の認知によって狭まることにより
ネットでの作者の死が、より現実と絶望を伴ってのしかかることになる。
そこまで解っているのなら止めはしないが、このことに対して自覚的な
閲覧者ばかりであれば、今日のネット文化は有り得ないと感じる。
特に、こんな偏狭な音楽を作っている僕のWebサイトという環境において。
だから僕は若い人にはそうやって言っていこうと思う。
可能であればArcadeFireやTakakoMinekawaなどの話題を実際に交わしたいとは思うけれど。


(ここで挙げた例は、まだネットで音楽をやっている人間が
今日のような莫大な量のファンを輩出するに至らなかった、あるいは
至っていない規模の話である。
大手とされるような、ファンの多いものに関しては
ある程度のブレーキがかかる場合が多い。なぜなら、
その作家についての話題を別のファンとの間でやり取りされる場合があり、
その際に独自の認知という部分での破綻が起き、カリスマを奪われるからである。)